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札幌タイドットコム:特別連載
 Writer
 
 タイ料理店
「Ryuーgoow」
オーナーシフ
 Ryu-goowについて
Ryu-goowのホームページ


すべての道はここから始まった!
僕が札幌でタイ料理店のオーナーシェフになるまで

札幌の美園にあるタイ料理店「Ryu-goow」オーナーシェフが自らの店を持つまでの経緯を工場でのアルバイトによる開店資金集めから、タイへの食の勉強の旅に至るまでのすべての記録を記した自伝。


第1章  旅の準備  

第2章  旅の準備2 

第3章  ドムアン空港 

第4章  カオサンロード

第5章  カオサンロード2

第6章  アパート探し

第7章  食べ歩き1

第8章  食べ歩き2

第9章  修行


第10 ビザの更新

第11章 ビザの更新2

第12章 ビザの更新3


第11章 修行2

第12章 修行3




第一章   旅の準備

それは名古屋からはじまった。

それ迄のあまりにも堕落した生活のお陰で、それまでサラリーマンとして働いて貯めた貯金を全て使い果たして、タイは愚か国内旅行にも行けるだけのお金は僕には無かった。

そして、それ迄の夢だった自分のお店を持つということも遥か遠くに行ってしまっているようでなんだか人生の先が少しみえてしまっていた。

そんな中ある一人の先輩料理人から、出稼ぎに行ってお金稼げば?っという一言で、僕はそれ迄勤めていたお店を飛び出し、一人お金を稼ぎに名古屋へと向かった。

出身は神戸、育ちは明石、だけど北海道に単身で移住して約12年、名古屋という地はまだ未経験の地方で、それも豊川町というとてつもなく田舎に来て僕は、思わず唖然としてしまった。そこは田舎なのに工場の森になっていて、車はもちろん、鉄鋼、食品、OA機器の工場が所狭しと立ち並び、空気は淀み海も工場の排水にまみれていた。その町に申し訳ないが絶対にここでは暮らせないと心底思った。

名古屋での仕事は、金型を機械で削るという単純な仕事でしたが、金属なのでとてつもなく重く、1つの金型を機械にセットするだけで一時間近くかかる物も珍しくない。1つの金型が300kgというようなものもあった。

そして金属を削るので、切り屑が山の様になり、それが自分に向かって飛んでくることがしばしばありとても高温になっているので、体にあたると『じゅっ』という音とともに僕の腕や首に火傷を作った。

また、機械にセットするときにはマグネットでくっ付けて機械まで移動させるのだが、セットの仕方が悪かったりすると、マグネットから外れて足や指を挿んで大けがをする方も珍しくなかった。

一度僕も、セットをミスして金型を落としてしまった。そして、その落ちた金型は機械に当たり、僕の足先30Cm手前に落ちた事もあり、冷や汗をかいた。

ここの住人の大半はリストラにあって仕事が無いとか、借金で自己破産してしまったというような方が大半を占めてた。そして、たいては仕事になんの充実感もなく、ただ機械を相手に自分も機械の様にただもくもくと作業をこなし時給を稼ぐ労働者であふれていた。

少しの楽しみも見つけた。ブラジルの日系人が沢山いて、僕はよくその日系人とお話をする様になった。彼らの大半は日本語も通じるが、日系人同士の会話はポルトガル語がほとんどで、僕はそのポルトガル語とブラジルという国に凄く興味を持った。

僕は元ミュージシャンと言う事もあって、ブラジルと言えばサンバとボサノバの国というイメージがあり、音楽の話もよくした。また、ブラジル料理もはじめてそこでごちそうになり、ぜんざいの様なものが塩で味付けされていてそれをご飯にかけて食べる食事が美味しかった。

ブラジル料理もタイと同じでスパイスをよく使い、特にクミンやコリアンダー、レモングラス、チリをよく料理に使っていた。そして、ブラジル人が沢山暮らしているというのもありブラジル食材を扱うスーパーがあちこちにありポルトガル語で書かれた雑誌や新聞、本屋やCDなども置いてあった。驚いたのはブラジル料理専門のお弁当屋さんがあることだった。

僕の名古屋での唯一の楽しみは、そのブラジル料理のスーパーに行ってスパイスを買い込み、これから出そうとするお店の料理の試作をすることが唯一の日課となって、コンビニの弁当はどうも美味しくないので毎日おにぎりと卵焼きを作って工場に働きに行った。

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第二章   旅の準備2

新幹線のなかで僕は座る席を探したが、自由席はどこも空席はなく結局僕は名古屋から大阪をたちっぱなしで過ごした。 

あれから約半年間、僕は名古屋で働き、約150万円のお金を貯めて、一路実家の明石に戻ってきた。

そこはもう地獄の様な暑さで、立っているだけで汗がしたたり、食欲は失せて、何もする気がでないでいた。そんな中、僕は旅の準備をするために図書館に行って色々と本を読みあさり、地球の歩き方という本に出会った。そこで手にとったのが、東南アジア個人旅行マニュアルという本だった。そこには、タイをはじめ、ラオス、カンボジア、ベトンム、マレーシア、シンガポールといった東南アジアの地方都市がどういった都市なのかということと、その国の言語や物価水準、食べ物、各地の交通機関などが事細かに書かれていて、僕はそれを夢中になって読んだ。

しばらくして僕はある旅のルートを作った。それは、バンコクからチェンマイまで北上し、ラオス、ベトナムを陸路で抜けてベトナム南北鉄道に乗って南下し、カンボジアを抜けて、一度バンコクに戻り、マレー鉄道に乗ってマレーシア、シンガポールに行って帰国しようと…

旅の資金は約70万円、もちろんその中には日本とバンコクの往復の航空運賃、向こうでの生活費等も含まれている。果たしてこれだけの金額でその国が回れるのかどうか、その時の僕にはそんな事を考えるよりも、早く日本を脱出したい気持ちが一杯で、一目散にインターネットで航空券の一番安い物を探して予約をし、バンコクの安宿をネットで予約して(これが後でとんでもないことになるのだが…)と気持ちばかりがあせっていたように思う。

それからは色々と図書館とインターネットで情報をかき集め、特に屋台料理は何を食べるとか、このバスに乗ってココ迄行って、そこのワットを見て…と計画を練っているうちに、約1ヶ月は過ぎて行った。

日本から持って行く荷物は、喘息の薬(もともと喘息持ち)、頭痛薬(偏頭痛持ち)、タオル、下着、短パTシャツ、タイ語の翻訳機と、地図と驚くくらい少なかったように思う。それから、向こうでATMが使えるときいていたので、新生銀行のバンクカードと、日本円を10万円(これがあとで大助かりになります)を70Lのバックパックに詰め込んで、親と兄弟に見送られ一路バンコクへと旅立っていった。


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第3章        ドムアン空港

ドムアン空港には無事到着したが、さてこれから僕はどうしたらいいのかさっぱりと頭の中から消えてしまっていた。世界各国のあらゆる人種にまぎれて、僕はパスポートを首からぶら下げて、入国手続きをしようとまっていたが、いっこうに前に進まない。時間ももったいないので先に両替をしようと空港内を見て回ると、Exchangeの文字が目にはいり両替をしてみることにした。

窓口の係員は無愛想にお金をうけとると早口のタイ語なまりの英語で何か話しているが僕にはさっぱり理解ができない。なんども、何?っと繰り返してみてもわからなくて、とうとう係員はあきらめたらしく何も言わず僕にタイバーツを渡した。確か日本円で、7万円を両替したと思うが、財布がふくれて小銭入れはぱんぱんにふくれあがりちょっと得をした気分になった。

再び僕は入国手続きをしようと元に来た場所え戻ると更に混雑していて、いっこうに進む気配がない。一番前を覗き込むと何やら入国する人数に対して係員の数が明らかに少ないのがわかった。

約1時間はまっただろうか、やっと入国手続きを終え今度は手荷物検査をしようと場所を探すと手招きされ誰かに呼ばれている。僕は荷物をかかえそちらに行くとここから行けば早くでられるよと言われその入り口に行くと今度は何のチェックもなしに空港の外に出られた。もちろんその手荷物が自分の物かどうかさえ見られなかった。

今度はエアポートバスに乗ろうと探しまわったら、また男性のタイ人に声をかけられ、タクシーはいらないかと言われ、断るとまた違うタイ人にどこに行くのかと何度も何度も声をかけられ断るだけでへとへとになってしまった。

エアポートバスの乗り口を探し一歩空港の外にでるとそこは今迄に見た事のないようなド派手なタクシーとトゥクトゥクがもの凄い音を立てて走っていて、トヨタにいすゞに三菱と日本車が走っている。僕はなぜか大阪の町を思い出した。

バスを待っていると今度は女性のタイ人に声をかけられ、またかと思ったら今度はどうやらバスのチケットは前金らしい事を教えてくれた。そして先に路線を決めないといけないらしい。仕方なく英語でカオサンロードに行きたいと告げると、バスの切符を僕にくれ、1000バーツを渡すと凄く嫌な顔をされた。

しばらくするとカオサンロード行きのバスが到着し僕はバスに乗り込んだ。

バスは直ぐに高速道路に向かいジグザグ運転で遅い車を次々とあおりまくり、ずんずんバンコク市内へ向かって走っていった。

しばらくすると高速道路からおり、市内の道を走って行ったがいったい何処を走っているのかわからにが、外は屋台が沢山並んでいてぼくはそれをみただけでわくわくしてしまった。そしてバスはさらに前と進み目的地のカオサンロードに到着した

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第4章 カオサンロー

何処におろされたともわからず僕はとりあえずバスをおりた。しばらくすると如何わしいそうなネオンの光る通りにあたり、何となく此処がカオサンロードなのかと分かったが、入り口が2カ所あるのだがどちらから入っていったのかわからないし、方角も定かではなかった。

僕はインターネットで予約したホテルにとりあえずチェックインをしてそれからどこかでご飯を食べたいと思い、プリントアウトしたホテル迄の地図と、カオサンロードの地図を持ってあたりを探したがそれらしい案内図も看板もない。しかたなく、大きなホテルのタイ人の従業員らしい男にここは何処に有るのか?とたずねると不思議そうに、首を傾げた。多分英語がわからないらしい。

仕方なくタイ語で訪ねると、今度は『トロンパイ』と言い指を指した。

僕は指を指す方向にまた歩いて行ったがまたみつからない。

そこで、『トロンパイ』とは何を言っているのか考えて、トロンはゆっくりで、パイは行く…??はてなにを行っているのか理解に苦しんだ。

しばらく僕はそこら中にいる人に手当たりしだい道を尋ね、ポリスマンにも聞いたが同じ様な仕草をする…。

70Lのバックをしょって両手には地図、腰には貴重品を入れた重装備の僕の体は、汗まみれになり異様な臭いを放っていた。そしてしばらくすると今度は外のゲートがある道につき、辞めれば良いのに僕は適当に左に曲がってまたとぼとぼと歩いていった。

そこは、屋台街になっていて、ガイヤーン、サテ、クイティアオの屋台が沢山出ていた。しばらくするとセブンイレブンが出てきので、そこで僕は水を買い、またしばらくブラブラと散歩でもする様に歩いていた。今度は僕と同じ様なでかいバックパックをしょった日本人の女の子が僕の顔をみて安心しきって僕に近寄ってきて僕に此処のホテルはどこかわかりますか?と尋ねてきた。

僕も自分のホテルが分からないのによせば良いのいその女の子の地図を広げて、自分の地図と見比べてその場所をたぐって行くと、どこかで見た文字が…。

さっき歩いてきた道に看板が有るのを思い出して、その子にそれを告げると女の子がもうカオサンは長いんですか?と聞いてきたので今着いたばかりだと言うと苦笑いをしてありがとうと去っていった。

ここまで約3時間あまり、僕は人に道を尋ねてはあちこちを歩き回りくたくたに疲れ異臭を放った僕の体は限界に近づいてきたのがわかった。僕は、その場にへたれ込み座って旅慣れた感じの日本人を探した。

しばらくすると道を挟んで迎え側のカフェに入ろうとする日本人がいるのがわかったので、僕は立ち上がりその日本人に探しているホテルを尋ねると、その日本人は、あっ、ここね、場所が移転したんだよ。おまけに同じ名前のホテルがあるから大変だったでしょ?と言われ、案内してあげると言われ一緒に付いて行った。
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第5章 カオサンロード2

何とかホテルのチェックインをすませ、ふと時計を見ると夜の11時を過ぎようとしていた。まだ11時かと思ったが、その時の僕には日本との時差を考える余裕は無かった。

まずシャワーを浴び、おもむろにテレビをつけるとタイ語の司会者が大げさに笑っていた。しばらくテレビを見ているとバックの効果音が生の楽器で演奏しているのに気づき、無性にお腹がすいていることに気づいた。

今度は道に迷わない様にフロントで地図に印をつけてもらって外にでた。そこはコンビにも近くて、サテやガイヤーンの屋台街も近い場所だとわかり、まずはコンビニでビアチャーンと水、チョコレート(日本のポッキーだったと思う)を買い、その屋台をぶらぶらと眺めていた。

しばらくぐるぐる同じところを回っていると屋台のおばさんがにこっと笑って僕に何かを話しかけてるが何をいっているのかさっぱりわからない。しかたなくそのおばさんの屋台の前で話をきいていると、そのサテが食べたくなりこれとこれとこれを2本と指でさしてみた。するとおばさんは袋にこれを入れてくれて指で5とやってくれたので僕は100Bを出すとおばさんは僕の顔をちらっとみて、何枚かのお札とコインをくれた。

ホテルにもどり、まずはチャーンビールを一気に飲み干し、サテを一口たべてみると、美味いと思わず言ってしまった。シンガポール土産のサテの元で作ったサテは食べたことがあったがタイのサテは初めてでその味は今でも忘れられない程美味しかった。

さっきから気になっていた『トロンパイ』はなんだったのかと、翻訳機で調べてみてもさっぱりわからず、タイ語の教科書を片っ端から調べると、まっすぐだと書いてあった。

外は、1時も過ぎたというのにまだまだ騒がしく疲れきっているのに到底寝付けそうにない。何を話しているのかわからないテレビをつけっぱなしにして僕は日本から持ってきた小説を読みながらしばらくぼぉっとしていたら、しらない間に僕は眠っていたらしい。クーラーをつけたまま眠ったらしく、朝目を覚ますと10時を過ぎていて、喉が乾き体のあちこちが痛かった。

第6章        アパート探し

しばらくカオサンロードで過ごしたが、どうもこのうるさい夜は我慢が出来なかった。外国人が道につばをはき、タバコはポイと捨ててしまう。これが本当のタイという国なのか?そんなことまで考えてしまうようになった。

ホテルはまずまず快適だったと思うが、あまり安いとはいえない。そこで、しばらくぶりにホテルにあるインターネットで日本語が使えることをしり、ネットでバンコクのアパートを探したがほとんど情報がない。

しばらく探していると、バンコクの語学学校をあっせんしているサイトに出会った。そこにアパートの情報もあるようなことが書いてあったので、電話して聞いてみる事にした。

日本語なのか英語なのかはたまたタイ語なのか、不安ではあったがいきなり電話に出てくれた女性は、もしもし?っとでたので、おもわず拍子抜けしてどもってしまった。

幾らかの手数料はかかるが、短期で済めるアパートもあるということなので、その会社にアパートを頼んでみる事にした。

次の日、チェックアウトして最後のカオサンロードだと思いしばらくぶらぶらと屋台を流し、ビール片手にサテを食べていると、今思うとバンコクでは珍しいケバブの屋台に出会った。

僕は思わず一つ注文すると、慣れた手つきで肉をそぎ落とし、トルティーヤの生地にその肉を乗っけてキャベツ、レタス、トマト、チーズをはさみ、マスタードソースのようなものをかけて僕に手渡してくれた。これがまた美味しくて、ほんとバンコクの屋台は美味しい物ぞろいで凄いなと感心した。

待ち合わせの時間になったので、元いたホテルに戻るとすでに業者さんは到着していた。ドライバーさんと、タイ人の男性、日本人の女性で僕を出迎えてくれた。

大きなライトバンに載せられて、初めてカオサンロードからはなれて、バンコク市内のあちこちのアパートを教えてくれた。

仕組みは日本とほとんどおなじだ。家賃、敷金、デポジットがあって、契約は1ヶ月単位でできるところもあるが、大抵は契約日数が長いと家賃は割安になる。キッチンはまず付いていないがベットやテレビ、家具類はついているところが多かった。光熱費は込みの所もあれば個人払いのところもあるし、大抵はお湯のでるシャーワーは付いていたが、値段を落とすと水シャワーしか出ないようなところもあった。

もの凄く高級なところも見せてもらった。プールにサウナ、スポーツジムもついてキッチンももちろんある。24時間のセキュリティーシステムも完備して、駐車スペースまでついているが、貧乏な僕には不釣り合いだった。

僕は、ある一件のアパートが凄く気に入ってそこに決めた。家賃は6000バーツ(約18,000円)敷金は2ヶ月分、デポジットは5000バーツだったと思う。そこは、ワンルームなのだが、4階立て、ベットもテレビもDVDもついていた。決めてはタイ人の間で、もの凄く美味しいと評判の屋台街が側にあるからだが、もう一つ気に入ったのが、エントランスがあってそこには可愛い犬が3匹いた。

ついでに、その業者さんがタイ語の短期留学もどうかというので、値段をきくと驚く程安かったので習う事にもした。

 シーーロム通りがすぐ側なのだが、あまりうるさくなくて快適そのものだった。近くにはスーパーもあって、大抵のものはそろう。

ロビーには沢山の本が置いてあって、そこでバンコクの地図一枚コピーをしてその地図をたよりに僕は食べ歩きを始めた。

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第7章        食べ歩き1

今回僕がどうしても食べたかった物のひとつにゲーン・キャオワン(タイのグリーンカレー)とソムタムがあった。ゲーン類は日本でも沢山作っているレストランがあって、何度も食べたがどこも味が違う。自分でもよく作るものなのだが本物を食べた事が無くて味のゴールがみえない。

それとソムタムだが、噂では聞いていたが本物の青パパイヤで作ったものが見つからないでいた。それに、ソムタム・プーという沢ガニが入ったイサン地区のソムタムも魅力的だった。


まず始めに僕は、アパート近くの大きな駐車車を改造して作ったと思われる屋台街を端から順番に食べてやろうと思い、まず始めに食べた物はカオ・パッ・バイガパオ(鶏のバジル炒め)とカイダーオ(目玉焼き)だ。


朝10時位に起きてシャワーも浴びずに外にでて、僕はその家の近くの屋台街へ歩いて行った。まずは入り口近くの屋台で食べ物を物色したがたくさん有りすぎて名前がわからない。そして屋台なのにビュッフェ形式の大きなその入り口近くの屋台は毎日おかずが変わっていて毎日食べても食べきれないくらい種類が豊富だった。まずはここで僕は全部を食べてやろうと思い、指をさしてこれとこれねっと注文してみた。

すると店員さんは、どこから来たの?とタイ語で聞いてきたのイープン(日本)だよと答えると、にこっと笑ってご飯におかずをぶっかけてくれた。そして、何も注文してないのに、適当に僕のお皿におかずをぶっかけた。


はて?なんで注文してない料理もいれてくれるのだろうと思ったが、それをタイ語で話す語学力はその時の僕には無かった。今度はタオライ・カップ?(いくらですか?)と尋ねるとサンシップっと言われたので、30バーツを手渡すとよく混ぜてねとジェスチャーしてくれた。


僕は、空いてる席を探してそこに座りご飯を食べ始めると、今度はジュース売りの子供がコーク(コーラ)はどう?と近寄ってきたので1本と言って注文すると、お金をもってピューっと何処かに消えて行った。あれ?っと思ったけど、その子は、プラスチックのコップに氷を入れてコーラとおつりを持って僕の前に戻ってきた。

まわりには、もの凄い数の食べ物の屋台や服、時計、貴金属等を売るがどんどん店を開け出して、シーロムのサラリーマンやOL達がどんどんその屋台街に入ってきた。


お昼の時間になると席はほぼ満席になり、みんな美味しそうに食べている。携帯電話を片手にもったスーツ姿のタイ人、ゴキブリがゆっくり歩いていたり、コンクリの冷たい床で腹這いになって寝ている犬もいる。そのとなりで、屋台のおばさんがニンニクを炒める良い臭いをさせて中華鍋をふって、トゥクトゥクがもの凄い音を立てて走り去って行く。。そこには現代のタイの姿があった。

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第8章 食べ歩き2

しばらく僕はその屋台をくまなく歩いて美味しそうな物を物色していた。よくみる屋台はカオマンガイ、カオカームー、クイティアオ、バーミー、が多かったように思う。驚いたのは、日本のお寿司の屋台があった。トレーに奇麗に並べられたお寿司は日本の物よりは2まわり位小さい。だけど日中35℃近くなる外にあるお寿司を僕は最後迄口にすることは出来なかった。


毎日歩いていると、何処の屋台が凄く混んでいて、どこの屋台がすいているのかが分かる様になってきた。そのなかから僕はもの凄く混んでいるパッタイの屋台に出会った。いつもお昼になるともの凄く大行列を作っているその屋台の前で僕もしばらく並んで注文してみる事にした。


しばらくすると僕の順番が来たが、パッタイに何を入れるのと聞かれたがその時は何を言っているのかわからず、アライコダイ!!(なんでもいいよ)と言ったら、パッタイ・クンを作ってくれた。


普通のパッタイは、卵と麺は一緒になっていて、丁度スクランブルエッグ状になったのがパッタイなのだが、そこのパッタイはオムパッタイ(卵でくるんでくれる)おまけに、エビに水融きの片栗粉をとおして、カリカリに香ばしく焼いた衣をその卵に乗っけて出してくれた。


それに、マナオ(ライム)を絞り、粉唐辛子と砂糖を自分で足して食べてみた。

僕は一瞬、自分の舌を疑った。

もの凄く美味い!!!!

麺はちょっと固めでくっ付いてなくて、モヤシの炒め具合、ニラ、ピーナッツ、チャイポーと食感も味も抜群にいい。更に、ライムの汁を擦ったそのカリカリのエビの衣が良い口直しになって、僕は夢中になってそのパッタイを食べた。


それからというもの、僕はそのパッタイの虜になってしまい、毎朝、一日一食はそのパッタイを食べた。日本人ということもあって直ぐに僕はそのパッタイ屋の兄ちゃんに覚えられ、何も言わなくても近くを通ると勝手にパッタイクンを作ってくれる様になった。

僕はそのパッタイをどうしても覚えたくなって、食べながらずっとその兄ちゃんの手元を見て、どのように作っているのかメモするようになった。

その兄ちゃんは、大きな鉄板と一つの中華鍋でパッタイを作る。まずはエビに水融き片栗粉を通して、鉄板で焼く、その後中華鍋でモヤシ、ニラを炒めて、大きな鉄板に移す。そして、卵を一つ鉄板に割り落とし、返しの先で黄身を割って薄くのばす。先ほど移したモヤシとニラに麺、ピーナッツと何かわからない物(後にパッタイナンプリックと分かった)、厚揚げの薄切り、砂糖、ナンプラーをぶっかけ、よく混ぜる。そして、それを薄くのばした卵の上に乗っけて端を折り返して包むと、程よくカリカリに焼けたエビを裏返し、その卵で包まれた物をそのエビの上に乗っけた。今度はそれを返しで裏返し、お皿に盛った。

当たり前だが、鮮やかな手つきだった。

僕はその手順を覚えようと毎日そのパッタイ屋台に通う様になっていった。そしてそれまで僕が食べたいと思っていたゲーンキャオワンとソムタムはどこか遠い記憶に消えていき、このパッタイをどうしても日本で作りたいと思う様になった。
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第9章 修行

パッタイ屋台に毎日通いながら、タイ語の授業も始まった。それ迄日本で少し勉強していたから始めはついて行けるだろうとタカをくくっていたが甘かった。

始めから日本語禁止、英語禁止の授業で質問もタイ語でしなくてはいけない。だからわからない所は、質問をタイ語で考えて次の日に質問するという様な感じで授業は進んで行った。


始めはヒアリングの練習で、先生の発音した声調を紙に→で書くということから始まって、タイ語のローマ字表記のしかたとか基礎をみっちりやらされた。クラスメイトはアメリカ人3名、カナダ人1名、香港人1名、日本人1名で行われた。


ちなみに僕以外の国は基本的に英語圏の人ばかりで、凄いスピードの英語で会話していたがぼくにさっぱり理解できないスラングばかりで、ちょっと英語がいやになったが、もともとの負けず嫌いの性格なのか、英語がだめならタイ語で会話してやろうと、まず先生と仲良くなれる様に本当に毎日勉強した。


まずは伊勢丹の日本語コーナーに行って、日タイ辞典、口語辞典を買い込み、予習と復習は欠かさずやって、違うクラスの日本人と授業の帰りにスターバックスによってタイ語の復習をした。


長旅の疲れか時々タイマッサージに行きたくなって、アパートの隣のマッサージに行く様になり、そこのおばさんにタイ語を教えてもらった。また、そのおばさんはイサンの出身で、イサン料理の美味しい屋台も教えてもらったり、暇なときは日陰でビールを飲みながら少しづつ日常会話もできるようになっていた。

授業に行く前に出会うと、いつもパイ・ナイ?っと聞かれ、お昼に合うとキン・カオマイカ?と聞かれ、だんだんタイ人の知り合いもできるようになった。だけど、タイ語で習う授業の単語と日常会話で使う単語は明らかに違っていて、授業でキンカオと言うと怒られた。(ターン・カオが丁寧語らしい)

タイ語の授業もだんだんと難しくなってきて、途中で辞める外国人もいたし、僕のカナダの友人は途中でわからなくなると急に不機嫌になって、授業中に寝てしまうこともあった。

そんな充実した毎日を送って約1ヶ月はあっという間にたっていった
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第10章 ビザの更新

日本を発つときにビザの事は頭の片隅にはあったが、どうやって更新するのかとか、幾ら掛かるのかとか全く知らずに僕はタイで生活していた。ある日、日本人の友人にビザはどうしてるのと聞かれ、僕はビザの事を思い出すしまつだった。


僕は、その友人に反対にビザはどうしてるのかと聞くと、彼はビザツワーという日帰りカンボジアツワーがあると教えてくれた。それは、ビザというのがたった1分でも国外(この状況でいうとタイ国外)に出国するとまた30日間タイの滞在期間がのばす事ができるというのを利用して、ビザを更新するだけにわざわざカンボジアまで出国するバスツワーの存在だった。僕はそれを聞いてそのビザツワーを募集している会社に電話をしてビザの更新をする事にした。


翌早朝にスクンビットのソイ(小道)にそのバスが来るので、パスポートと入国カードと確か写真を一枚、それと2000バーツの費用を用意して僕は集合場所に向かった。

ソイに着くともうバスが待機していて、僕と同じビザ更新組が列をなしてバスの出発を待っていた。僕もその列に並びパスポートを預け、名前、滞在先等を明記して係員に渡した。殆どが欧米人で、日本人は僕だけだったので、コーヒーを飲み、タバコをふかして出発するのを待った。


バスは立派なクーラー付きのいわゆるVIPバスと呼ばれる様なもので、リクライニングはもちろん、車中は映画が流れて、おしぼり、水やジュース、軽食なんかも用意されていてとてもタイの様には思えなかった。ただし、映画はタイ語音声の英語表記なので画像をみるだけだが、タイ語の勉強になると思い車中はその映画を見る事にした。


タイの映画は、ホラー物が多くて、タイ人に聞くと映画館では年中ホラー映画が1本は必ずある程ホラー映画が好きらしい。内容はよくわからないが、丁度中国の映画でキョンシーが出て来るそんな画像が流れていた。


しばらくするとトイレ休憩でドライブインの様な所に止められたので、外に出てみる事にした。まずはコーヒーとタバコを補給して、あたりをブラブラ散歩していると、ここにも屋台が出ていて、タイ人のおばさんが暑くてグタァーとしていた。何の屋台かなぁっと思って覗いてみるとクイティアオの屋台で、ルークチン(団子)やモヤシ、ギヤオ等がガラスケースにあったので、1杯頼んでみる事にした。

おばさんは、相変わらずぐったりしてやる気がなさそうだったけど、僕にクイティアオを作ってくれた。慣れた手つきで本当にものの1分もかからない位で作ったそのスープをみて驚いた。なんと、スープがピンク色をしていたのだ!!

豚の血が入っていて、スープが赤黒い色をしたクイティアオ・ナムトックと言うのは知っていたが、ピンク色ははじめて見てビックリした。どうしてピンク色なの?何が入っているのと聞いてみると、これはクイティアオ・エンタフォーと言って赤麹で発酵させた豆腐みたいな物が入っていると教えてくれた。

僕は恐る恐る食べてみると、旨い!!本当に旨い!!丁度、日本の甘味噌の様なスープで赤麹の色とスープがまじってピンク色をしているがなんだか日本のみそ汁を飲んでいる様なそんな優しい味がした。
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第11章 ビザ更新2


バスの運転手はもの凄く飛ばしていて、急ブレーキ、急発進、無理な追い越しは当たり前で、少しでも遅い車がいるとどんどん抜いてただモクモクと走っていた。約4〜5時間後、ガンボジアとタイの国境のまちポイペドに到着した。



さすが国境の町というだけあって凄く活気があって、何処かの軍の払い下げ品と思われるアーミー服やブーツ屋が沢山あった。また、免税店なんかもあって、日本のタバコや酒、海外の香水なんかも並んでいたが、日本の様な高級感がある建物ではなくて、廃材で作られたトタン屋根の様な店構えに不自然にガラスケースをおいて、高級な物が奇麗に並べられていた。



バスをおりると一行は各自パスポートを帰されて、イミグレーションの場所へとガイドに案内されそこに向かった。その途中に僕は幾度となく小学生位のカンボジア人と思われる子供達に何か頂戴とせがまれた。そして、日傘をさして僕に日傘の中に入れとゼスチャーする子供もいたが、一緒に歩いていた外国人に日傘に入るとお金をとられるよっと教えてくれたのでその日傘の子供達も追い払った。


しばらくすると橋が見えてきてそのドブ川を覗き込むと子供達が泳いでいたが、もの凄い異臭がしていた。するとまた小学生高学年か中学生位の女の子が来て、今度は兄弟と思われる赤ちゃんを背負って僕に何かを話しかけてきた。何を話しているのかわからなかったが、今度は背中にしょった赤ちゃんの口を指さして何かを伝え様としている。僕は何か食べる物が欲しいのかな?っと思って飴を渡すと、その子はその赤ちゃんに食べさせた。そしてしばらくつきまとわれたので、タイ語で少し話してみると驚く事をその子は口にした。


弟はいくつ?っと尋ねると、何も話してくれない。発音が悪いのかな?っともう一度聞くと、弟じゃないと言う。じゃ、妹は?っと尋ねるとまた何も話してくれない。お母さんは何処にいるの?っと尋ねると、お母さんはいないと応えてくれた。それじゃ、お姉ちゃんが妹の世話をしてるんだねっと聞くと、彼女は…


『自分の子供…』



僕は聞き返した。エエッグ・マイ??(自分の??)



こくりとうなずいた…

父親はと聞くと、わからないと言った。


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第12章 ビザ更新3




イミグレーションで出国の手続きを済ませると、今度はこんな田舎に不釣り合いなカジノとホテルが見えてきた。そこでツワーの参加者はカンボジア食の昼食を済ませたが、けっして美味しいと言えるものでは無く、また他の外国人達も手を付けないまま残しているが、僕はカンボジアの味を知りたくて全て残さずに飲んだ。


しばらく休憩だと言われたので館内を散歩してみた。館内はホテルとカジノが一緒になっていて、また外国人むけのゴルフツワーや、アンコールワットツワー等のチラシがあちこちにあった。しばらくするとカジノが現れたので、覗き込むと欧米人や中国人、韓国人、日本人が目の色を替えてブラックジャックやルーレット、スロットに夢中になっていた。





僕は何もする事が無くなったので、しばらく外でタバコを吸っていてさっき出会った女の子の事を思い出していた。そして、ここのカジノやホテル、食事の事、色々なことがとても腹立たしく思えて、そして何故か涙が止まらなくなった。





僕は立ち上がると、ホテルの土産物売り場に行き飴の袋とガムを買い込み、さっきその女の子と会った橋に戻り、その女の子を探したが見当たらなかった。

だけど僕に何かをくれという子供達は沢山いたので、僕は飴の袋を開けそんな子供達に飴を一個ずつあげていると、瞬く間に子供達の人だかりになって、一袋、また一袋と空になっていった。そして、人だかりが落ち着いてその子供達をみていると、大きな子供達は兄弟か自分の子供なのか僕にはわからないけど、小さな子供達にその飴をあげているのがわかった。



その後、元いたホテルにもどると、ツワー客が集合していたのでその中に混じると、どうやらそのツワー客もカジノをしていたらしく、幾ら負けただのと陽気に会話していた。その後、またイミグレーションに行き、今度はタイの入国をする為に列に並び、無事またタイの入国に成功した。カンボジア滞在期間わずか1時間30分であった。

その後またバスに乗り込み、ホラー映画を見せられ、おしぼりや水等のサービスを受けながらバンコクに戻っていった。


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第13章 修行2

アパート近くのパッタイ屋は相変わらず繁盛していて、どうしてもこのパッタイを日本で作りたいと思って思い切ってそのパッタイ屋の兄ちゃんに教えてくれと言いたくなった。


だけど、この混雑ぶりのなか中々話し出す機会もないので、僕は一日そのパッタイ屋台に張り込む事にした。僕は朝9時に起きて9時30分にはそのパッタイ屋に着いていたが、朝からの大盛況ぶりである。そしてお昼のピークはもの凄くて、そのパッタイ屋が見えないくらい並んでいる。


お昼のピークを過ぎた3時頃だろうか、客足がまばらになった頃に、その兄ちゃんがタバコに火を付けて、隣の屋台にちょっかいを出しに行ったのを見て僕はチャーンスっと思ってその兄ちゃんに話しかけてみた

既に顔なじみになっていたので、兄ちゃんはまた食べるのか?っという様な顔をしていたが、僕はこのパッタイの作り方を教えて!!っと言うとあっさりダメダメっと言われた。だけど僕は食い下がって、朝の仕込みを見せてくれというと今度はあっさりと良いよと言った。


次の朝4時位にその屋台に行くと既に兄ちゃんは段ボールに入った大量のモヤシを持っていて水に浸けていたので、僕はモヤシを水に浸けるのを手伝ってやった。その後僕の仕事は朝のモヤシの水浸けが仕事になった様で1ヶ月位はモヤシの水浸けをしていたと思うがいっこうに教えてはくれない。


あのピーナッツと一緒に入れるよくわからないものは一体何なんだろうと思ってこれ何?っと聞くとあっさりナンプリックと答えてくれた。ナンプリックって他にも色々と有るけど何が入っているのだろう?っと思ってまた何が入っているのと聞くとわからないと言われた。何処で買ってるのと聞くと、買わない。作ってる、おばぁちゃんがと…。


今になって良くわかるのだけど、その時はこのナンプリックとこの次に出て来るナムチムと言う基本をやっと知る事ができたそんな一日だったと思う。


その後、暇な時間はパッタイを作らせてもらえる様になって、僕は午前の涼しい時間の少ないお客さんのパッタイを作る様になっていた。もちろん、給料などなかったが、そのナンプリックは舐め放題なのは言うまでもない。
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