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2009年6月27ー28 札幌でタイ南部の津波復興プロジェックトの紹介
タイの津波被災地で考えられたアイデアと復活パワーが
何千キロを越えて北海道の夕張に伝わりました。

TEXT:東山
写真: 東山
東さんの公式HP:http://blog.canpan.info/ideaeast/
(写真の提供:フェアトレードフェスタ)



2009年6月27日28日に大通り公園にて「フェアトレードフェスタin
さっぽろ」が開催され。その中で、タイ南部での津波復興プロジェクトの紹介を
行います。

フェアトレードフェスタ in さっぽろ 
http://www36.atwiki.jp/fairfes2009/


ちなみに、津波をきっかけに始まった、日本のアートワーク「さをり織り」は、
2年前に来日したタイのロックバンド「モダンドッグ」が、コンサートのグッズ
にしました。

そのアイデアが、北海道の財政破綻をした街「夕張市」にある障害者がつくる
「さをり織り」の製品化のヒントになり、それ以来、津波被災地のパンガー県と
夕張市の二つの「さをり織り」の工房との間にゆるやかな交流が行われています。

そういうこともあり、津波のさをり織りの導入を発案した僧侶、アーチャン光男
ガヴェサコー師が来年5月頃に北海道を訪ねことが出来るようにと現在準備をし
ています。
北海道夕張のリストバンド VS タイ南部パンガー県のバンムアンのリストバンド

日本とタイの二つの国にのビッグアーティストが、それぞれの国の支援を必要とする方を、自分たちならではできる支援をした結果。ふたつのさをり織りのリストバンドが出来上がった。
それが、今、二つ揃った。






常夏のタイ南部と日本の北海道とではまるで気候が違うのがリストバンドに現れているのが面白い。
お国柄というか、住んでいる人の気質だったり。民族が違うための体格の差だったり。
そういうところで差が出てくるのでしょうか。

ほらほら、よく見ると。
夕張で作られたリストバンドには毛糸が織り込まれています。

夕張とタイ南部パンガー県のバンムアンは、全く違う気候だけど、共通点もあることがわかってきた。
バンムアンは、近くのナムケン村で津波にあった方のうち約4000人が避難してきたところなのだが。このもともと住んでいたナムケン村を訪ねたとき、漁村としてはかなり不自然だった事に気がついた。
その理由がやっとわかってきた。

どういう所が不自然だと思ったかというと。津波で破壊されたとはいえ、港湾施設が充実しすぎているということと、不自然に海岸沿いに大きな町が形成されていたということである。
最初は軍事面で利用したのではと思っていたが、確かに第二次大戦中に日本軍が補給基地として利用していたようだが。パンガー県の主立ったタイの海軍施設は別の所にあり。戦後60年以上経った今も日本軍だけに作られた施設がいまだに使われていたとは考えにくい。

港を見ると、沿岸漁業用の船だけでなく、沖合漁業用の船があるとはいえ、津波で破壊されたとはいえ、漁村としてのたたずまいとしてどこか少し違っている。

実は、この土地に錫鉱山があったのです。それで、錫鉱石の積み出しのための港町として発展したのがナムケンだったのです。

日本軍はその港湾施設を少し利用しただけだったようです。
20世紀頭までは、家が4.5軒だったのだそうだが。労働者が移住し町が出来上がったのだ。
そして、1980年代あたりから、錫鉱山が閉鎖され、移住した人は取り残され、観光業や漁業にシフトしひっそりと生活をしていた。

この漁業というのも、伝統的な沿岸漁業というものだけではなく、港湾施設を利用して沖合漁業も行われていたのが津波で流された船の形でわかる。
その後、大津波に遭いピンチに。
              




ちなみに・・・
もう一つの民家の軒先で止まったもう一隻のブルーの船「青い天使」とは対照的に、津波に流されたとき人通りの多い道を流されたため、百人は人を巻き込んだのではないかということで「オレンジの悪魔」と呼ばれている。

さらについでに・・・
沖合漁業はインド洋にマグロなどの漁業資源があるにも関わらず。日本に輸出するためには、マラッカ海峡を通らなければならず輸出するのには不向きで。しかも、沿岸に缶詰工場を立地させようとしても、バンコクから遠く材料が調達しにくいという問題から、めざましくは発展していない。
もし、沖合漁業が今以上に発展していたとしたら、タイ国内の津波による被害者がかなり増大していたに違いない。

一方、夕張はというと。石炭という鉱工業で栄え、同じく1980年代に衰退。観光と夕張メロンを代表する農業にシフト。
そして、財政破綻というピンチに。

この二つの町は、鉱山によって発展し、移住してきた人たちによって成り立ち、鉱業が衰退したにもかかわらず、移住した人が残されたかたちになった町。
そして、ピンチが訪れ、注目され、いま多くの知恵が集まろうとしている場所である。

そんな二つの町で、さをり織りのリストバンドが作られたというのは、なんとも趣深いものがある

タイの津波被災地で考えられたアイデアと復活パワーが何千キロを越えて北海道の夕張に伝わったのです。
タイの津波被災地で考えられたアイデアと復活パワーが何千キロを越えて北海道の夕張に伝わったのです。
夕張の中心部から少し南に行った、清水沢という所にある「手織り工房レラ」を伺った。
ここでは、15年前から、支援と必要とする仲間が、さをり織りや様々なアートワークをしている。現在8名の仲間がさをり織りを作っている。
いまここでは、2007年6月30日から7月1日に行われる野外コンサート「キュー・ミュージック・ジャンボリー in 夕張」でイベントを盛り上げるためのグッズを手作りで製作しているのです。

それはなぜ、ここで、そのような事をしているのでしょうか。
まずは、今起きている出来事の前に、時代的な背景からお話しします。
みなさんも報道などを通じてご存じの通り、夕張市は財政破綻をし、只今、大リストラ中です。その大リストラの一環として福祉予算を削減も行うわけですが、その中でも真っ先に削減の対象として選ばれたのが、少数派である支援を必要とする知的障害者と呼ばれる方たちでした。おそらく、多くの人に影響が出るものより、少数派の人からリストラする方が反発が少ないという判断が少なからずあったのでしょう。
それだけではありません。障害者自立支援法という名前はいいけど実情にそぐわない法律が出来てしまったため、小さくてもちゃんとやっていこうという施設は「障害者自立支援法に基づく障害者支援施設の設備及び運営に関する基準」という細則の第九条に記された「施設入所支援は30名以上」という項目により、定員30名という清水沢学園は、一人でも欠けると施設として認められなくなってしまうという制度の狭間にはまってしまいました。
それ以前に、この法律だけではありませんが、自立という一見美しい言葉の裏に見え隠れする、(税金を払うため?)お金を稼ぐ人、お金を使える人でないと人でないというような価値観が、いろんなことで困っている人々の尊厳を損ないかねない危険性を秘めている。

そんなことで小規模な施設では、法律に基づくことにより、支援が必要な人に必要な支援を施しにくくなりました。
そんな厳しい社会状況の中、自らの考えを様々な政策に翻弄されることなく、夕張の本当の財産である自然を生かした自分たちの理想の仲間と過ごせる施設を創り上げていこうと「手織り工房レラ」のある清水沢学園では様々な模索をしていました。

そんなとき、北海道出身の人気グループGLAYのTERUさんが「手織り工房レラ」の存在を知り、自分だからこそ出来る何かがないかと思い、自ら現地に赴き様々なアクションをはじめました。

彼はその活動の一つとして、自らブログなどにさをり織りを作るための糸が足りないなどの情報をブログなどで発信しました。すると、たくさんの糸が全国から届きました。しかも、これらの糸は、温かいメッセージと共に送られてきたのです。中には10年ぐらい寝かせていた思い出のあるドイツ製の毛糸などもありました。

また、TERUさんは、この他に、自分ならではの出来ることとして、「手織り工房レラ」の看板を作りました。いままでは、「手織り工房レラ」には立派な看板が無かったのですが、素晴らしい看板が出来上がりました。


板が出来た頃からGLAYのファンの方がぽつりぽつりと夕張を訪れるようになりました。
ファンの方には工房を遠巻きに見て看板だけを撮影して帰っていく人もいるのですが、工房に入ってきて工房のことを聞くなど何らかの関わりを持とうとする人たちもいました。
そして、関わりを持とうとした方は、支援を必要とする仲間が一生懸命にさをり織りを作る姿を見て、不思議と癒されて帰って行くのだそうです。正確に言うと、支援が必要な仲間を支援をする仲間が共に作り出した創造的な空間に癒されているのでしょう。






癒された方の中には、自分の出来る範囲で自らも支援をする仲間になりたいと思う方も現れ出しました。

4月の終わり頃、そのGLAYが、キュー・ミュージック・ジャンボリー in 夕張に正式に出演する事が決まりました。「手織り工房レラ」では、自分たちが出来る方法でイベントを応援し、しかも、自らの夢を実現するためのアクションができないかと考えました。それから、いろんなアイデアを出し検討しました。

5月中旬。東京の代々木公園で行われたタイフェスティバル2007にゲスト出演していた、夕張から何千キロも離れた国、タイ王国の人気グループ「モダンドッグ」の応援グッズとして、津波により4000名以上が亡くなったタイ南部のパンガー県の復興住宅で作ったさをり織りのリストバンドを販売したとの情報を、このCanpanブログ内のブログ記事で知りました。
「手織り工房レラ」は、自分たちもコンサートを盛り上げるためのリストバンドを自分たちのさをり織りで作る事を決めました。

タイの津波被災地で考えられたアイデアと復活パワーが何千キロを越えて北海道の夕張に伝わったのです。

さをり織りは、もともと日本で生まれた織物でJICAの支援などもあり、タイの施設などでも少しずつ作り出していました。その技術を使い、2004年に襲った津波の心のケアのためにパンガー県でさをり織りを始めたのです。
さをり織りは手織りのため、30センチ織るのにも数時間という時間を要します。そのため、経済支援のために販売しようとした場合、単価が高くなり売れにくいという問題がありました。そこでお金持ちではなくできるだけ多くの人が買ってもらえるように、価格を抑えようと考えました。そのアイデアの一つとして、布を小さく切りリストバンドなどを作りました。価格戦略は成功しリストバンドが売れ始め、さをり織りが仕事をする事による心のケアだけでなく被災者の収入確保にも役立つようになりました。
そのころ、タイのミュージシャン「モダンドッグ」のボーカルPodは以前から津波の支援の活動をしていたのですが、そんなさをり織りのリストバンドの事を知りモダンドッグのロゴ入りリストバンドの製作を発注。コンサートなどでの販売を開始したのでした。
一度は財政難になり、継続が難しいと思われた、津波のさをり織りプロジェクトは、リストバンドなど低価格の商品が売れ始めた事で、経営が持ち直し継続的な津波被災者の支援が出来るようになりました。

2007年修好120周年を迎える、日本とタイ王国という二つの国のトップミュージシャンの自発的な支援活動が「さをり織り」というキーワードで繋がった。
さをり織りを作る仲間と日本とタイのそれぞれのトップミュージシャンとの関わりの中、タイでの活動がさをり織りのふるさと日本に伝わり、ひとつのカタチになろうとしている。

「手織り工房レラ」では、50名の方から贈られた糸を、8名の支援を必要とする仲間たちが丹念に手織りをし、支援が必要な仲間が出来ない製品加工の作業を「手織り工房レラ」を訪れた方を中心に、全国の支援をする仲間が手伝うなどをして、1000本のリストバンドが急ピッチで出来上がりつつあります。
もちろんTREUさんも離れていてもサポートしているとのこと。

私の訪れた時にも、なんと山口県でロックミシン掛けをしてくれた方から荷物が届きました。

このリストバンドは、キュー・ミュージック・ジャンボリー in 夕張の会場内で限定1000本販売されます。
タイの津波被災地のやさしさパワーを受け継ぎ、様々な人々のやさしさで織りなされた、夕張の「手織り工房レラ」のリストバンドを是非手にして下さい。
きっとあなたもやさしくなれます。



☆参考情報☆

「手織り工房レラ」について
こちらのブログに経緯や活動が書かれています是非ご覧下さい。

『夕張の知的な支援を必要とする仲間たち』

「Moderndog」について
タイの人気ロックグループ。インディーズ時代も含め結成15年目。
日本での津波の復興支援活動としては、2005年に横浜国際トリエンナーレの会場にてさをり織りの販売を行った。

Moderndog公式HP(タイ語&英語)
http://www.moderndog.biz/
Moderndogの試聴が出来るサイト(英語)
http://www.myspace.com/moderndogneverlie

バンコクから伝わってきた情報ですが。
モダンドッグのボーカルPodは、自らのアクションが「手織り工房レラ」の活動のヒントになった事を喜んでいるとのこと。今回、スケジュールが会わなかったので夕張のコンサートには行けないが、いずれ夕張に行きたいとのこと。

タイフェスティバルでのライブの様子 タイ大使館HPより
ふるさとを離れ日本という遠い国に住み働いているタイ人の方々がコンサートに熱狂する姿が撮されています。

記事の提供:http://blog.canpan.info/ideaeast/
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